「草枕」再読

ひさびさに小説を読みました。漱石の「草枕」。最近は読書と言えば、ITモノ以外は新書とかそんなものばかり。小説は読みたいとは思っていましたが、中学、高校と文学少年(?)だった私は、いわゆる文豪とか有名どころの小説はほとんど文庫本で読んでおり、それをまたよむ気はおきませんでした。漱石も、文庫本ですべて読んだはず (当時、その手の文豪の作品はすべて読む、という暗黙のルールが私にありました)。高校2年生の時、理系コースに進むか文系コースに進むかの選択の際、最終的には理系にしましたが、国文学にも興味があった私はかなり悩みました (文学というよりは、大野晋先生の「日本語の起源」や「日本語をさかのぼる」に刺激を受けていたので日本語そのものに興味があったのですが)。
では、なぜまた「草枕」を読んだのかと言うと、最近、ボキャブラリーが不足しているというか、貧弱な表現能力しか無くなったと感じたからです。例えば夏休みに言った羽黒山。行けばわかりますが、鳥居をくぐると全く別世界に入ります。周りはホントに山伏の世界で、奥深い林と苔の世界。それを表現しようと思った時、深淵?いや、ちょっと違う、幽玄?それもちょっと違う、という感じで、本当はこれを的確に表現する日本語があるはずなのでそれが出て来ない自分に歯がゆい思いをしました。それ以外でも、うまい日本語が頭の中に浮かばず、チープな表現でごまかしている自分がどうも情けなく、どうしてなんだろう、昔は違っていたと思うけど?と考えた時、やはり小説を読まなくなったからでは?と思い至りました。
そういうことを考えた時に、頭の中に浮かんだのは漱石草枕の冒頭に出てくる有名なこの部分。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

ここまではいかなくとも、こういう文章を書けるようになりたいものだし、おそらく中学、高校はこの手のものを毎日読破していたので、もっとボキャブラリーも表現能力も豊富だったはず、ということで、まずは「草枕」だ、ということで読んでみました。
読み始めてすぐに気が付きました。
読めない・・・
正確に言うと、読んでも頭の中に入らない。日本語が難しい。
おかしい、昔はこんなのはさくっと読んでいたはずなのに・・・でも、当時も読んだのは読んだけど、理解はしていなかったのかもしれません。
難しいながら、読み進めると慣れてきたというか、なんとかついていけるようになりました。でもやはり「草枕」は難しい。私の頭が退化したのは確かですが、それだけかな?そもそも、難しいのでは?それに小説と言っても、なんか変な小説。ストーリーもあるような無いような。主人公の内情を延々と文字で表現しているだけでは?
そう思っている時に、「声に出して読みたい日本語」で有名な明治大学教授の齋藤孝先生の「壁にぶつかったら僕は漱石を読む」という本を書店で見つけました。
「壁にぶつかったら?」
確かに壁にはぶつかってはいますが、それが理由で「草枕」を読んだわけではありません。しかし、「そうか、壁にぶつかったら読むのが漱石なのか」、と、まだ齋藤先生の本を読む前から変に納得してしまいました。
「壁にぶつかったら僕は漱石を読む」の第6章が草枕の章で、その章のサブタイトルは「煩わしい人間関係から逃れるためには居場所を変える」とあります。自分に当てはめると、煩わしい人間関係は確かにありますが、逃れたい、居場所を変えたい、という悶々とした時期は過ぎていると思います(過ぎた、というか、慣れっこになってしまったみたい)。「草枕」の主人公も、「草枕」を読む限りは居場所を変えたいという極限状況ではなく、かなり楽観的な状況に思えます。もしかしたら私と同程度の心理状態?などとも考えてみました。
いずれにせよ、無理やりこじつけているようにも思えますが、「草枕」を手に取ったのは偶然と言うよりは必然なのかもしれません。
草枕」は電車通勤中を利用して2日ほどで読みましたが、正直、内容はさっぱりわかりません。齋藤先生も「壁にぶつかったら僕は漱石を読む」の中で、「小説というほどのストーリーがあるわけではないのでとっつきにくいかもしれませんが、表現としてはなかなかユニークなものもあります」と書いています。確かに、読んでいると、時々くすっと笑わせる表現も随所に出てきます。齊藤先生は「屁」の部分を取り上げていますが、私は第五章(第五部?)に出てくる床屋が主人公の頭のふけを落とすシーンの表現に惹かれました。よくぞこんなシーンをこんな表現で書けるものだ、と。長いのですが引用します。

「頭洗いましょうか」
「頭はよそう」
「頭垢(ふけ)だけ落して置くかね」
親方は垢の溜まった十本の爪を、遠慮なく、余が頭骸骨の上に並べて、断りもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本毎に押し分けて、不毛の境(きょう)を巨人の熊手が疾風の速度で通る如くに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が生えているか知らんが、ありとあらゆる毛が悉(ことごと)く根こそぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫(めめずばれ)にふくれ上がった上、余勢が地磐(じばん)を通して、骨から脳味噌まで震盪(しんとう)を感じた位烈しく、親方は余の頭を掻き回した。
「どうです?好い心持でしょう」
「非情な辣腕だ」
「え?こうやると誰でも薩張(さっぱ)りするからね」
「首が抜けそうだよ」

(新潮文庫草枕」P67より)

ある意味で別の表現能力というか、ジョークっぽい表現です。まぁ、こういう表現能力を身につけたいわけではないのですが、随所に出てくる古い日本語も覚えておいても損ではないでしょう。
10代の頃に「草枕」を読んでどう感じたのかは全く記憶にありませんが、今一度、齋藤先生の本に出てくる「坊っちゃん」、「三四郎」、「門」、「道草」、「こころ」なんかを読んでみて、齋藤先生の本の中の解説と自分の解説を比べてみようと思いました。